そろそろ人生を考えよう

♡死ぬために生きてる♡

やばい聞いてくれ、筋肉痛が時間を置いて来るようになってしまった。

昨日、椅子を大量に運んだんですね。

もう運んでる途中から あ〜これは、これは…と思いながら運んでいたけど、意外にも今日の朝は快調だった。

が、今更来た…メチャクチャ腕が筋肉痛…

そして同時に感じる“老い”…………。。。

 

それはまあよいとして、この間こんな話をしたんですね。

「“安室の女”って、オタクじゃない子も使ってて凄く違和感を感じる。」

これは私が言った訳ではないです。翌日に安室の女になる予定の非オタに言われました。

とりあえず、オタク的な反応をするとすれば、「わかる」だった。

私はわりと長年オタクをやってきたので(と言っても全然まだまだオタ道の途中ですけど)、こう言った「オタク発の用語」が一般に普及する例を目の当たりにしてきた気がする。例えば「壁ドン」がうるさい隣の部屋に向かって壁に正拳突きをする語だったのが、いつのまにかキュン…的なアレになっていたりした。

一般普及はしていないが「バブみ」も、本来は相手の母性に自分がバブるという意味だったのが、いつのまにか相手がバブいことをバブみと言うようになっていたりもする。

こんなように、オタクコミュニティの中でさえ言葉の意味はどんどん変化していくのだから、それがもっと使用される範囲が広くなればなるほど変化する可能性も増えていく。まさに言葉は生き物と言われる通りだ。

確かに言葉には正しい意味があるけど、正しい意味で使わなきゃいけないという話をしたいのではなくて、言葉は言葉を目の当たりにした人間の数だけ言葉は存在すると私は思うので、だから、言葉の変化というのはどうしたって止められるものではない。「りんご」と言ったときに思い浮かぶのは、ある人は1つの赤いりんごの実かもしれないし、ある人はウサギ型に切られたりんごかもしれないし、またある人は木になってるりんごかもしれない。

 

大体、「バブみを感じる」って言ったときに、何故お前が「ママみ」のある対象にバブっている事をややこしく「バブみ」というのか!?!という疑問は尽きない。「バブみ」というのは近年稀に見るハイレベルなオタク用語で、バブっている対象=「バブみ」の対象 という単純な構造になってしまうのは逆に正しく進化したのではないかと思ってしまう。

 

という話をしたところで、例の話に戻るけど、よく考えたら上の話はだいぶ脱線してしまった気がする。

つまり、言葉というのは目にした/耳にした人間の数だけあって、そして「正しい意味」で使わなくても、通じてしまえばこっちのものである、ということ。つまりつまり、合言葉的な、その言葉自体の意味がなくても使えてしまったりする。(というか言葉自体が合言葉なのではないかという説)

扉を開ける人「山」扉を開けて欲しい人「川」

扉を開ける人は別に山と伝えたい訳じゃなく扉を開けるには、「山」という必要があり、扉を開けて欲しい人は、扉を開けてもらうには「川」という必要がある、ただそれだけでそれぞれの「山」「川」という言葉に意味はあっても、言葉自体の意味はない。

 

結局何が言いたいのか?(私が一番わからなくて困ってる)

つまり、今一般的な使われ方をしている「安室の女」というのは、普及していくうちに見事に変化し、「あの映画を観ました」という合言葉なのではないか?それに後続するコミュニケーションのための合言葉なのではないか。

「安室の女」という言葉自体に「あむぴっぴどシコっぴ」という意味はもちろんなく、「安室の女になりました♡」=「コナン観てきました」という言葉の意味があるだけのような気がしている。

 

さて、そして、実はここからが本題である……

「単に映画を観た人」たちではなく、マジモンの「安室の女」たちは、どうして「安室の女」という言葉を作ったのか?という話がしたかった(だけだったのに何故…)。

安室の女たちは、いわゆる「オタク」であり、バッグに無数の安室の顔を付けていたり、安室のぬいぐるみ(通称:あむぬい)を抱えていたりする。

「オタク」という人種は、なにかとフラストレーションを抱えているように思われる。それはそもそもオタクになった過程にもあるかもしれないが、その話は色々な理論を組み立てなきゃならないので置いといて…

 

もう簡単に言ってしまえば、オタクにとって「推しが可愛い」という事は、最大のフラストレーションなのである。

 

可愛い推しの可愛さに対して「推しが可愛い」としか言えない貧弱なオタクの表現力は、オタク自身にとって最大のフラストレーションになってしまう。

人間は、なにか分からない事に対して恐怖を覚えるが、言葉をつける事で安心を得て、日々生きることが出来ている。

 

見覚えがあるのではないだろうか。

軽率に死にまくる「オタク」の姿を…

 

オタクは日々、恐怖に怯えている。つまり「推しの可愛さ」は恐怖そのものなのであり、つねに危険に脅かされている。そしてその「恐怖」は、それまでの方法では太刀打ち出来ない程

、重大な事項なのである。

「推しの可愛さ」はもちろん「可愛さ」などという言葉では表現しきれない。

 

「安室の女予備軍(「安室の女」という言葉が出来る前に安室の恐怖に怯えていた者たち)」は、安室の恐怖によって毎日「アムピッピドシコピッピ…」と泣いていた。

そんな時、天才的な表現力を持つ救世主オタクがふと現れる。

「迷える子羊たち。もう泣く事はありません。あなたたちは今日から<安室の女>と名乗るのです。そうすればその恐怖は和らぐでしょう…」

安室の女予備軍は、安室の女と名乗る事にした。すると、驚く事に、自らの中にあったあの重大な恐怖の塊はすっかり無くなっていた。安室の女たちは、今日も元気に映画館へ通うのだった…(〜fin〜)

 

オタクが抱える激情は、それまでにある言葉では表現しきれない。だからオタクは、新しい言葉を生み出すのである。(今日の最重要ポイント)

 

表現者というのは、なにか日常で「うまくいかないこと」があるから表現するんだ、とこの間の文芸評論の授業で聞いて、まさにこのオタクの話と同じだと思いながら聴いていた。

 

一般に普及した「安室の女」は合言葉で言葉それ自体に意味を持たないが、「安室の女」が生まれたその場所をたずねてみるとそれはもう意味の世界に満ち満ちていると言えるだろう。

意味の世界、つまりアムピッピドシコピッピという激情を持ってしまった人間がフラストレーションを抱えながらも必死にしがみつき手にした言葉が「安室の女」だった訳だ。

 

オタクはクリエイティブである可能性が高い(ex.同人活動)というのも、このオタクが抱えてしまうフラストレーションによるものだろう。もちろん全員がクリエイティブという訳ではなく、そのクリエイティブさに乗っかる人もいれば、合言葉的なオタクもいるだろう。まず、創造というのは限られた天才にしか出来ないし。

 

冒頭の一般に普及した「安室の女」に対する違和感は、おそらく使っている世間一般は何も感じないが、彼女が言葉に対して慎重な人間だから分かったことだと思う。その違和感は、一般に普及した「安室の女」という言葉にオタクが苦しみもがきながら生み出した言葉の背景にある激情が含まれないにも関わらず、字面の「強さ」だけが残ってしまったために、軽率な使われ方とのそぐわなさに対するものなのではないだろうか。

 

私は是非この天才的な表現力を持った救世主的なオタクを「TO」と呼びたいと思う。

今日はそんな「TO」に感化されてブログを更新しました。以上です。

 

※このお話はフィクションです。

 

新生活が始まって1ヶ月経ったみたいです。

皆様いかがお過ごしでしょうか?

 

居残り勉強中の私ですが、今のところはちゃんと休まず出席しています。

学校とは机と椅子がある教室が沢山ある建物が何棟かある場所です。チャイムが鳴る毎に私は建物の間を行き来して教室に入り椅子に座って色々な知識を学び、考えます。学校とはそういう場所です。

授業を受けるとやっぱり学問は楽しいなと思います。今期は意外にも、自然環境論というのが私の中でヒットしていて、例えば「コミュニケーションは<人間>が<言語>を<用いてする>ものだとは限らない」という話を聞きました。

学問は楽しい、けど私は頭が良くないので、教養としての学問はやりたいけど、研究としての学問は無理だなと思いました。

毎日学校に行っても誰とも喋らずに帰ります。でも学校は友人と楽しくお喋りする場所でも、ギターを弾く場所でも、遊びに行くのに待ち合わせする場所でもありません。

なんだかんだ学期というのはせいぜい3ヶ月くらいで、それは今はとても短く感じます。だいぶ歳を取ったのかもしれません。この世界には時間というものが流れていて、存在している全ての事物はそれに合わせて移り変わっていくものです。

ですが私は、もう暑いのに衣服を半袖に変えるタイミングを失ってしまったようです。

残念ながら、変わらなければ生命活動を維持できないので、なんとかタイミングよく短い丈の衣服に変えて元気に過ごせたらいいなと思います。

 

かしこ

ポジティブ思考のはなし

やっとタイトルらしいタイトルをつけられた!のはいいとして

 

このブログはせめてもの人間らしい生活の維持、つまり生産性の維持のために始めたにも関わらず、私というゴミ人間はすぐに「めんどくさい」というのを理由にやめてしまい、このブログを楽しみにして下さっている方々、

はいないと思うので、ご迷惑をおかけすることもありませんのでお詫び申し上げません。(もしいらっしゃいましたらご自宅まで饅頭を持ってお詫び申し上げに伺わせて頂きます。)

なかなかやっぱり1つの記事を仕上げるっていうのは難しいですね…そんな面白い記事を書けるわけでもないのにクオリティを気にしてあげない下書きがいっぱいあるみたいな…うんち!(せいかいのおと)

 

で、今日はポジティブ思考のはなしを書いてみようと唐突におもいました。

私は自慢ではないが数々のアレルギーを抱えており(童貞アレルギー、就活アレルギー etc...)、「ポジティブ」もアレルギーの内の1つであります。症状は字面を見ただけで吐き気がする、そして実際にポジティブお化けを目の当たりにすると死に至る病が発症します。

こんなことばっか言ってるので、私はみなさんから「病んでる」とか「大丈夫?」とか言われるんですが、それらは本当に心外なのです。何故なら私はポジティブ人間だから!(ババーン!)

そんなわけあるか!っていま日本だけならず中国も飛び越えてタジキスタンくらいから聞こえてきたわ。ただひとつ言っておきたいのは、私は自分のどんな発言においてもちゃんと自分の思想がいかなるものかという自覚はあるので皆さん反射で批判しようとせず安心して続きを読んでください。

では、なぜ私はポジティブなのでしょうか?

「ポジティブ」ってラップ風に言うと「病まない、悩まない」って感じですか?(韻踏めた…?)

でも悩まなければ人間ではありません。そいつぁきっとポジティブお化けです。

まあ、そんな頭ハッピージャムジャムサイコな奴はたまにしかいないと思うんだけど「病みツイート」とか「愚痴ツイート」とか言われて嫌がられるからって人の目を気にしてネガティブな事を飲み込んだ事くらいならいっぱいありますよね。

 

おい!!?!!なんでやねん!?!!?病み?愚痴?

そんくらいええやんか!?!??

 

…っていうのが本当のポジティブ思考だと思いません?思わない?そりゃ悪いことしたな!

でさ、みんなはポジティブくんの器っていうのを勘違いしがちなんだよ、ポジティブくんはネガティブくんを打ち消して満足するような器の小さい子ではない、むしろポジティブくんはネガティブくんをも受け入れる事ができる器の大きさを持っていると思うんだよ。

すべては打ち消すんじゃなくて受け入れてから始まるんだ…(やっぱりだんだん何言ってるのかわかんなくなってきた)

 

すべてが始まる、というのはつまりそこからプラスにもマイナスにもなる。

あれだ、超簡単に言えば、ポジティブ思考≠プラス思考ってことだ。(私自身書きながら整理しています。)

ポジティブっていうのは、とりあえず「認める」事だと思う。そこにそういう事象があるという事実をすべて認めること、逆にネガティブはそれらを見ようとしなかったり、見て見ぬフリをしてしまうことだ、たぶん…

 

神経反射で「愚痴」は「ネガティブ」だから「良くない」ってなる人こそ、もしやネガティブ星の住人なのではないではないだろうか…?自分はネガティブ星人かどうか、お母さんに聞いてみてください。もしかしたら、あなたは実は地球生まれじゃないの、ネガティブ星生まれなのよ…さらにあなたはネガティブ星の王家の血が…

 

ちょっと前に、同性愛についての話があって、その時も「受け入れる事」=「肯定」ではない、みたいな話だった気がするんだけど…

(実況は、わたくしでお送り致します。数日前には「お肉が美味しすぎて語彙力死んだ」とかいうふざけた記事をあげていたのに、この記事では日本語のレベルが急上昇していてニュアンスの問題になりつつあります。ここで「受け入れる」とは=「認める」、つまり肯定/否定の前の段階を指しています。日本語力が低いので他の言い方を知りません。すみません。なおこれは、伝わらなかった際の言い訳です。)

まず、問題を解決しようとする時になにも生まないのは「受け入れないこと」つまり、関わらないように消極的であること。例えば、同性カップルが街を歩いていたときに「こらっ!見ちゃいけません!」ってしちゃうこと。

おそらくこの人はネガティブ星人なのです。まずポジティブな「受け入れ」がないので、この先にある肯定も否定も生みません。非生産極まりないのです。

そう、ネガティブは非生産極まりないのです!(大事な事なので二回言いました!)(なんかまとまりそうな雰囲気でテンション上がってきた!)

 

ネガティブからはなにも生まれない、のメカニズムはこういうことであると。べつに悩んだり病んだりしていいんです、そこにあるのは人間として生きるのに最も大事にするべき「生産性」なのです。病まなきゃむしろ人間じゃねぇ!(大先生のお言葉を拝借して…)

で、そこでせっかく生まれた生産性を我慢して打ち消してしまうことこそが、ネガティブ思考なのではないでしょうか。

 

では、私はネガティブ星人かもしれない。と気付いてしまったあなたに…

明日からできる!ポジティブ思考講座!

一番簡単なポジティブ行為、それは「ネタ化」することです。あ、全然簡単じゃないかも…

 

あるところに、好きな女の子を食事に誘ったら「チビだしブスだし面白くないから無理」と断られてしまったあげくツイッターに晒されてしまった童貞さんがいました。彼はもう振られたショックから立ち直れません。どうせボクはチビだしブスだし面白くないし童貞だよ…

童貞さんは日々悩んでいました。…

 

 という感じで、この童貞さんはこれからどうするべきでしょうか? レッツポジティブ!

「ボクはチビだしブスだし童貞だから、まあ振られてもしょうがないよね!」とツイートしましょう。これが「ネタ化」です。ちなみにこの文面はベーシックなので、少々面白みが足りません。そこらへんはあなたのユーモアで補って下さい。そうしなければ一生振られたことを受け入れられずウジウジ悩むネガティブな童貞さんのままです。そして後々妄想の世界に入り込み、ストーカーに化けることでしょう。

 

さて、童貞さんはどうなったでしょうか?

彼は人を笑わせることができる(人に笑われることができる)、生産性のあるポジティブな人間になりました。めでたし。

 

(実況:これ書いてて思ったけど、全然ポジティブ講座じゃない…なぜなら「どう受け入れるか」がネガティブからポジティブになるポイントなのに言ってないや…)

 

……つまりなにが言いたかったのかというと、

「ネタ化」という手段は結構荒くて「受け入れる」ことが出来てなくても、ネタにすることでそのステップを越えることができるんじゃないかと。私はそんな感じでもうすぐ4万ツイート。

(実況:ただいまの時刻、AM4:22。自分で何言ってるのかもうさっぱりわかりません。)

「ネタ化」においてユーモアのセンスがめちゃくちゃ問われるし、それによって成功するか失敗するか決まるので、この手段が一概に良いとは言えませんが、そもそも「ツイートする」ということが「ネタ化」であり「受け入れ」の表明であることは間違いありません。なので、まあ笑えるかどうかはさて置いてもいいのかもしれない。あ、さっきからツイートっていうけど「つぶやき」でも「飲み会での愚痴」でも問題ありません。

受け入れたくない滑稽な自分を無理矢理でも人に見せて笑ってもらう、そうすればなんかまあいっか、ってなるかもね。っていうただの私流の処世術でした。生き恥を晒していけ。

 

じゃあもう3000字もこえたのでまとめです。

・ポジティブは見たことを受け入れること。ネガティブは見ようとしないこと、あるいは見て見ぬフリをすること。「受け入れ」からすべては始まる。

・「悩むこと」は人間の持ってる大事な生産性だから、ネガティブ思考の非生産性で打ち消さないで。

・手取り早くポジティブになりたいのなら「ネタ化」しよう!

 

と言う感じでしょうか…ここまで読んで下さった方がもしいたのなら感謝しかありません。百万要求されても私はひれ伏して応えるしかありません…。頑張って働きます…。

 

見たくないものを見ない人生よりも、見たくないものを見る人生は大変だけど、それを見たことでなにかが生まれる気がするし、それが人間らしさであり面白さでもある気がする。

あとキレなきゃむしろ人間じゃねぇ!

人生って人間ってそんなもんだよねー

 

なんとかまとまったっぽいので終わります

p.s.今AM5:10だけど何時間かけて書けた…?

波は押〜し寄〜せる〜 終わるこ〜とも〜なく

でも逃げたりしないと笑える

(歌詞とかって勝手に載せたらカスラ…じゃなくてジャス○ックに訴えられますか怖…)

 

1日おきに夜5時間バに行く以外はとくになんもせずゴロゴロひきこもりのプレミアムエブリデイを送っているんですが、今日は!!!ポップフェス!!!

 

自分が出ないライブって初めてでめっちゃウキウキしてたんだけど…開始の時間まちがえるやらかし…本命には間に合った(※間に合ってない)からいいとして、しかしその前のグループも(察し)感がしてめっちゃみたかった…(察し)の通りキンプリ曲やってるし…あぁ…

\おーおおーおおー!/ドラマチックに…

 

で、本命のスなんだけど猫の途中に来ました。うーん良い曲だ。消えないように傷つけてあげるよ… この曲はほんとにグループ映えする曲だな〜って思いました。9大まで走って着いて息切らしながら机に座ったけど、一気になんかおばあちゃんちの和室の座布団の上、って感じ。とてもよかったです。

次の曲、出だしで ん? 猫、仲良し って選曲にデジャヴを覚える。。元祖スじゃあないか…!とハッとして、3人でやったグループをついつい思い出してしまいました。でもあのスタートから、こうやって私がいなくなっても続いてるんだなぁとしみじみ…。元祖スは初代スになって、初代スからの二代目スの移行は嬉しいことにとてもスムーズに進んだから、今の4人みたいな未完成な状態は無かったけど、こうやってまたここから4人が新しく作り上げて行くんだなぁって思うと、改めてスのス(タート)だなって思いました。がんばれー!テンポ難しいのに頑張ってた…!とてもよかったです!

 

そして、ついに最後の曲 は…

群青 !????!!!??

なんやて、、ここんとこ気持ちが暗くなったときに聴いてて救われてた曲や、、アカン、、

というか、スとの運命力すら感じた…きっとスが群青を呼び、群青が私を呼んだのだ…(意味不)

もうなんか暗くて助かったなって思ったんだけど正直めっちゃウルウルした。そしてめっちゃいっしょに歌った。最高だ!!!!!

それで演奏聴いてて、海の歌だからか、みんなが春合宿で海が近い岩井に行って毎日練習したりあそんだり飲んだり、そんなたのしい素敵な日々の空気がぶわーっと伝わってきた気がした!多幸感ってやつだ!おすそわけありがとうございます!

グループだと楽器1つ1つの音が映えるから良いなって思った!アコギボーカル特有のアコギびいきしちゃうけど、バンドだといろんな音に掻き消されがちなアコギがとても映えてていい!アコギが聴こえて欲しい曲だから!(もう何言ってるのかわかんなくなってきた) もちろん、ベースも最高なのもわかっている。キリがないほど最高の曲…。この曲はずっとやりたかった曲だから、今度は是非バンドでもやりたいし、無限にコーラスも入れたい!

やっぱりでもなんと言っても、歌詞がいいですね、、!!!!あぁ、、、ボーカルが聴こえやすいから歌詞がよく聴き取れるのもグループの利点かも。。

一瞬でキラキラ光ってる海に鳥を追いかけて裸足で駆け出したわ。波が押し寄せても逃げたりしないって笑えたわ。とっても良かったですー!アも言ってたけど選曲だけで百点満点です!

 

ってな感じです。ほんとよかったぁ〜。

うまくできなかったって後悔もあると思うけど、さっき言ったように上手くできなくてもこれはスタートだから!また新しいスになるんだなって思うとワクワクが止まらないです!

次のライブもたのしみにしてます!

 

興奮して書きすぎたのでそろそろ終わりまス…

 

他のバンドもとても良かったです。みんな上達してて凄い!(3年間上達しなかったマンより)

あ、あと去年のポップフェスなにやったっけ、え?ゆかりバンドって1年前なんだ…って思った。

 

さいごにもし私が1つアドバイスするとしたら、弾いてる自分たちだけじゃなくて、聴いてる人をたのしませるようにしたらもっとライブが楽しくなりそうかなって思った!私は歌も上手くないし声も良くないしアコギもベースも下手でなにもできないゴミだけど、みんなが楽しんでくれるようなことをしようって思ってゆかりバンドとかやって、みんなが(たぶん)楽しんでくれてて本当に楽しかった!からそういう気持ちあってもよいのかな(?)

って、思ったけどサークルだし自己満足でいいとも思う!

まあもし下手でも弾いてる人も聴いてる人もたのしけりゃオーケーみたいなとこあるから!(?)

 

あんま適当なこというと怒られそうなので終わります

夜食べたお肉が美味しすぎて

語彙力を失ったため今日のブログはお休み

(おい坊主、還俗しちまうのか…!?)

 

あ、昨日は普遍性のある真理(的なもの)をこのブログに書き残したいって言ったけど一個あったわ

お肉は高いだけ美味しい。そして美味しいお肉は世界を平和にする。

私はとても軽率な人間だから今凄く世界平和のために牧場で働きたい。

 

書けないので終ります。

 

p.s.ツイッターでやれ

うーむ

(今日の記事はあまりまとまりがない…継続は力なりってことで続けたいけど、あんま納得いかない場合は下げよう…)

 

やっとこさ3日目ぇ。明日の更新出来るかどうかで一歩踏み出す感じがするんですけど、記事の内容的に坊主が還俗する可能性は低そうですね。安心。(?)

あ、スター?とかもありがとう。いまいちはてなブログのシステムわかってないけど、ふぁぼ的な物ですよね。(Twitter基準)

そういえば昨日は人間は更新し続けるという話をしたんだけど、じゃあ逆に変わらないものってなんだろうなぁ〜って

いう話は全然出来ないんでしませんけど、たぶん更新されても残り続けるようなものって普遍性のあるものだよね。そういうのをこのブログに書いておきたいけどそんな簡単にはみつからないわな。なんなら哲学書かくわ。

 

唐突に自分語りを始めるけど、私は歩くペースが人より遅い。っていうのは私ってどんな人間か?をあらわすには凄く良い例で、その行動からなにがわかるかというと「人に合わせる気がない」「流れてる時間が遅い」「自分のペースを守る」「楽をしがち」みたいな。

私からしたら周りはみんなちゃんと歩くペースを乱さないからみんな行進上手いなーって思う。

でなにが言いたいかっていうと、どうやっても私はその行進から外れてしまうみたいなんだよ、みんなからして私はどういうやつなんだろう?もしかしたらわざと行進から外れようとしてる悪ガキに見えてるのであれば、私としては少し悲しい。なぜなら私はわざと外れようとする悪ガキではない。幼稚園は半分ぐらいサボっていたしみんながおそうじしてる時も昼寝してたし(あれ?悪…)、もうずっと幼い頃からどうやっても外れちゃうただの出来損ない、わざとじゃなくて。

もちろん私も行進出来るもんならしたい、でもなんかやっぱ行進中にキョロキョロしてペース乱してあげく面白いもの見つけたら夢中になって行進やめてそっちいっちゃうよね。それで先生に怒られて始めからもっかいってなってクソ迷惑なやつだ!(みんなごめんね)

まあそんな出来損ないではあるが、それでもこれからも死なずに生きていきたい。そこでポジティブに捉えてみることにした。すると、

私はふつうの人ができないことはできないけどふつうの人ができないことはできる人間なのではないか?

と気付いた。それはただただ可能性があるって意味でもそうだし、実際に人がもってないセンスとかは多少あるつもりではいる。前述の時間感覚だったり、バランス感覚、色彩感覚、観察力は人よりも鋭いし、結構いろんな視点を持ってる、かもしれない。

まあ、それが活かせなきゃただのイカレチンポジティブクソ野郎だけど…そして野垂れ死ぬ。〜fin〜

で まあ参考までに、たぶん社会が求めてるのは、みんなが出来ないことができる人間じゃなくて、みんなが出来ることを同じようにできる人間で、同じ時間に同じ場所で、同じ服を着て、同じ髪型をして、前の人に続いて行進できる人間なんじゃないかなぁ。残念ながら私とは真逆だ。

皆さんは自分の中に流れてる時間とか自分のペースを気にしたことありますか?ないか。でも時間=時計ではないと思わない?ないか。

行進が大変なのも知ってる、みんながペースを守れているのは頑張っているからなのも知ってる。だけど違う感覚を持った人間なのに、それに気付かなかったり見て見ぬフリして同じように行進する人生はもったいない気もしてしまう。前の人に続いて行進してどこに行きたいのかね?

そろそろ人生を考えよう。みんながみんな自分の人生を生きれたらいいのに〜

ただ、行進する道はある程度整っているけど、だれも行進しない道を行くのは過酷だろうなぁ。行進できないからしょうがないけど…

好きで行進する人もいれば、好きじゃないけど行進する人もいて、行進できないタイプの人もいる。

まあ、イヤイヤ行進するタイプはいちばんダサいかも。こういうタイプは後々ジェラシーお化けに変身するのできをつけよう。

できないタイプの人もさっき言ったみたいにポジティブに生きましょう。ただしイカレチンポ(略)にはならぬよう。

私はこれからも人生を考えて生きます。がんばります。

 

昨日は更新の話 今日は行進の話 なんてな

ギャグが寒いので終わります

 

p.s. 今日は改行できてて嬉しい。はてなブログも気分屋なのかな…