そろそろ人生を考えよう

♡死ぬために生きてる♡

やばい聞いてくれ、筋肉痛が時間を置いて来るようになってしまった。

昨日、椅子を大量に運んだんですね。

もう運んでる途中から あ〜これは、これは…と思いながら運んでいたけど、意外にも今日の朝は快調だった。

が、今更来た…メチャクチャ腕が筋肉痛…

そして同時に感じる“老い”…………。。。

 

それはまあよいとして、この間こんな話をしたんですね。

「“安室の女”って、オタクじゃない子も使ってて凄く違和感を感じる。」

これは私が言った訳ではないです。翌日に安室の女になる予定の非オタに言われました。

とりあえず、オタク的な反応をするとすれば、「わかる」だった。

私はわりと長年オタクをやってきたので(と言っても全然まだまだオタ道の途中ですけど)、こう言った「オタク発の用語」が一般に普及する例を目の当たりにしてきた気がする。例えば「壁ドン」がうるさい隣の部屋に向かって壁に正拳突きをする語だったのが、いつのまにかキュン…的なアレになっていたりした。

一般普及はしていないが「バブみ」も、本来は相手の母性に自分がバブるという意味だったのが、いつのまにか相手がバブいことをバブみと言うようになっていたりもする。

こんなように、オタクコミュニティの中でさえ言葉の意味はどんどん変化していくのだから、それがもっと使用される範囲が広くなればなるほど変化する可能性も増えていく。まさに言葉は生き物と言われる通りだ。

確かに言葉には正しい意味があるけど、正しい意味で使わなきゃいけないという話をしたいのではなくて、言葉は言葉を目の当たりにした人間の数だけ言葉は存在すると私は思うので、だから、言葉の変化というのはどうしたって止められるものではない。「りんご」と言ったときに思い浮かぶのは、ある人は1つの赤いりんごの実かもしれないし、ある人はウサギ型に切られたりんごかもしれないし、またある人は木になってるりんごかもしれない。

 

大体、「バブみを感じる」って言ったときに、何故お前が「ママみ」のある対象にバブっている事をややこしく「バブみ」というのか!?!という疑問は尽きない。「バブみ」というのは近年稀に見るハイレベルなオタク用語で、バブっている対象=「バブみ」の対象 という単純な構造になってしまうのは逆に正しく進化したのではないかと思ってしまう。

 

という話をしたところで、例の話に戻るけど、よく考えたら上の話はだいぶ脱線してしまった気がする。

つまり、言葉というのは目にした/耳にした人間の数だけあって、そして「正しい意味」で使わなくても、通じてしまえばこっちのものである、ということ。つまりつまり、合言葉的な、その言葉自体の意味がなくても使えてしまったりする。(というか言葉自体が合言葉なのではないかという説)

扉を開ける人「山」扉を開けて欲しい人「川」

扉を開ける人は別に山と伝えたい訳じゃなく扉を開けるには、「山」という必要があり、扉を開けて欲しい人は、扉を開けてもらうには「川」という必要がある、ただそれだけでそれぞれの「山」「川」という言葉に意味はあっても、言葉自体の意味はない。

 

結局何が言いたいのか?(私が一番わからなくて困ってる)

つまり、今一般的な使われ方をしている「安室の女」というのは、普及していくうちに見事に変化し、「あの映画を観ました」という合言葉なのではないか?それに後続するコミュニケーションのための合言葉なのではないか。

「安室の女」という言葉自体に「あむぴっぴどシコっぴ」という意味はもちろんなく、「安室の女になりました♡」=「コナン観てきました」という言葉の意味があるだけのような気がしている。

 

さて、そして、実はここからが本題である……

「単に映画を観た人」たちではなく、マジモンの「安室の女」たちは、どうして「安室の女」という言葉を作ったのか?という話がしたかった(だけだったのに何故…)。

安室の女たちは、いわゆる「オタク」であり、バッグに無数の安室の顔を付けていたり、安室のぬいぐるみ(通称:あむぬい)を抱えていたりする。

「オタク」という人種は、なにかとフラストレーションを抱えているように思われる。それはそもそもオタクになった過程にもあるかもしれないが、その話は色々な理論を組み立てなきゃならないので置いといて…

 

もう簡単に言ってしまえば、オタクにとって「推しが可愛い」という事は、最大のフラストレーションなのである。

 

可愛い推しの可愛さに対して「推しが可愛い」としか言えない貧弱なオタクの表現力は、オタク自身にとって最大のフラストレーションになってしまう。

人間は、なにか分からない事に対して恐怖を覚えるが、言葉をつける事で安心を得て、日々生きることが出来ている。

 

見覚えがあるのではないだろうか。

軽率に死にまくる「オタク」の姿を…

 

オタクは日々、恐怖に怯えている。つまり「推しの可愛さ」は恐怖そのものなのであり、つねに危険に脅かされている。そしてその「恐怖」は、それまでの方法では太刀打ち出来ない程

、重大な事項なのである。

「推しの可愛さ」はもちろん「可愛さ」などという言葉では表現しきれない。

 

「安室の女予備軍(「安室の女」という言葉が出来る前に安室の恐怖に怯えていた者たち)」は、安室の恐怖によって毎日「アムピッピドシコピッピ…」と泣いていた。

そんな時、天才的な表現力を持つ救世主オタクがふと現れる。

「迷える子羊たち。もう泣く事はありません。あなたたちは今日から<安室の女>と名乗るのです。そうすればその恐怖は和らぐでしょう…」

安室の女予備軍は、安室の女と名乗る事にした。すると、驚く事に、自らの中にあったあの重大な恐怖の塊はすっかり無くなっていた。安室の女たちは、今日も元気に映画館へ通うのだった…(〜fin〜)

 

オタクが抱える激情は、それまでにある言葉では表現しきれない。だからオタクは、新しい言葉を生み出すのである。(今日の最重要ポイント)

 

表現者というのは、なにか日常で「うまくいかないこと」があるから表現するんだ、とこの間の文芸評論の授業で聞いて、まさにこのオタクの話と同じだと思いながら聴いていた。

 

一般に普及した「安室の女」は合言葉で言葉それ自体に意味を持たないが、「安室の女」が生まれたその場所をたずねてみるとそれはもう意味の世界に満ち満ちていると言えるだろう。

意味の世界、つまりアムピッピドシコピッピという激情を持ってしまった人間がフラストレーションを抱えながらも必死にしがみつき手にした言葉が「安室の女」だった訳だ。

 

オタクはクリエイティブである可能性が高い(ex.同人活動)というのも、このオタクが抱えてしまうフラストレーションによるものだろう。もちろん全員がクリエイティブという訳ではなく、そのクリエイティブさに乗っかる人もいれば、合言葉的なオタクもいるだろう。まず、創造というのは限られた天才にしか出来ないし。

 

冒頭の一般に普及した「安室の女」に対する違和感は、おそらく使っている世間一般は何も感じないが、彼女が言葉に対して慎重な人間だから分かったことだと思う。その違和感は、一般に普及した「安室の女」という言葉にオタクが苦しみもがきながら生み出した言葉の背景にある激情が含まれないにも関わらず、字面の「強さ」だけが残ってしまったために、軽率な使われ方とのそぐわなさに対するものなのではないだろうか。

 

私は是非この天才的な表現力を持った救世主的なオタクを「TO」と呼びたいと思う。

今日はそんな「TO」に感化されてブログを更新しました。以上です。

 

※このお話はフィクションです。